The Dream of a Banana Exhibition

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個展「バナナのみた夢」 29 Oct – 6 Dec 2020
Cafe Sampo / Soko Space OTONARI in Yugawara, Japan

バナナのための祭壇 Altar for a Banana Leaf, 2020
Mixed media installation
Dimension variable
Exhibition view at Soko Space OTONARI, Yugawara
Exhibition view at Cafe Sampo

個展「バナナのみた夢」作家による解説

果実は大事な栄養源であると同時に、生殖の象徴でもあります。美術史のなかでは身近な静物モチーフ、またはシンボルとしてその姿が繰り返し描かれてきました。そして、ウォーホールのバナナのレコードジャケットやアップルコンピュータのロゴに代表されるように、現代の消費文化に欠かせないアイコンとしての役割もあります。そのような多面性に惹かれ、私の作品には果実がたびたび登場します。

私が最初にバナナをテーマに制作したのは2016年の作品「バナナ」です。時計じかけのバナナが一秒を刻み続ける作品で、本展示でもご覧いただけます。その後、父の影響で2018年より俳句の勉強をはじめ、松尾芭蕉の名句に数多く触れることになりました。そこで出会ったのが今回のテーマとなる俳句「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」です。その俳句を起点に、時代をさかのぼり室町時代につくられた能の謡曲「芭蕉」(作者 金春禅竹)を知り、今回の展示を構成するためのテーマとしました。

松尾芭蕉は、野分(台風のこと)で庭のバナナの葉が無残な姿になる気配を感じながら、簡素な庵の中で雨漏りがたらいに落ちる音を聞く、そんな秋の夜の風情を詠みました。雨風にうたれた庭のバナナの哀れさに感じ入り共感したことから自身の名を芭蕉に改めたとも言われています。バナナは木のように見えますが、実は大きな草なので幹を持たず、雨風に弱いのです。バナナというと南国を連想しがちですが、芭蕉が日本的美意識である無常感やわび・さびをそこに見出したのは興味深いです。

能「芭蕉」では庭の片隅に生えているバナナの葉の精が女の姿になり、夜になると僧侶の庵を訪ねて来ます。バナナの葉の精はとても熱心に僧侶を説得し、やがて部屋へ上がってしまいます。女は草木成仏について質問し、語り合い、経を聞き、舞を舞い、僧と心を許し合って過ごしますが、ある嵐の夜が明けるとそのバナナの木は破れて果てていました。彼女が望んだ成仏とは何なのか、植物が宗教を求めた「自意識」さらには「好奇心」について考えさせられます。2020年に世界の景色を塗り替えてしまった新型コロナウィルスも、人の姿に近づき僧の教えを介して自己と向き合った好奇心旺盛なバナナの精のようなものなのかもしれません。

この俳句と能の共通点は、庭(外)と庵(内)の2つの空間から成っていることです。この展示では倉庫スペースをバナナの木が生えている庭、そしてカフェ側を僧侶や芭蕉が住む庵と見立てることにしました。G.RINAが展示のために制作した音楽は、雨音を現代のビートに置き換え、そして女の気配を存分に漂わせます。音は空間を満たし、2つのスペースをつなぐスリット窓から自在に行き来します。
倉庫スペースの映像インスタレーション「盥に雨を聞く夜哉」は、バナナの精の舞う姿を捉えようとする試みです。立体の構造物は定義しづらい形でありながら不思議と安定を保っています。観客の立つ位置によって形が変化して見えるので、その周囲を歩き目線を動かすと、結果的に立体は舞を舞うことになります。映像も同じ試みの延長にあり、鳥や煙、気泡などがバナナの精の舞いを探求します。

カフェの壁には、主にバナナの実をモチーフにしたコラージュ作品が展示されています。バナナなどの果実は切り刻まれ、お互いに編みこまれています。映像インスタレーションと壁のコラージュ作品はスリット窓を介して見合っています。果物が絡み合うコラージュ作品は、バナナの精の妄想を形にしたものかもしれません。カフェ入り口付近にはバナナの葉に捧げる祭壇をつくりました。
俳句を発端とした展示ですので季節感を大事にしたく、カフェの各所にその時期の季語をバナナやりんごに彫って展示しています。果実のタトゥーから発せられる甘い匂いも、音と同じく空間を構成する1つの要素となっていますので、お楽しみいただけたら幸いです。

2020年11月吉日
ピメリコ